推理小説・体験版・不可思議な男

「不可思議な男」

 おれは、この秘法を身につけるまで二十年の歳月を費やした。そう、おれが二十歳の時からだから今のおれは四十になる。まともな定職に就いたことは一度もない。だから収入は少なくて結婚もした事がない。それでもよかったのだ。
 自分が望めるものになれるのなら。
おれの名前は桂木啓志(かつらぎけいし)という。福岡県福岡市の生まれだ。両親は平凡な人間で、それがおれにはいやでしょうがなかった。父親は全国に支店を持つ東京本社の食品メーカーに勤めている。だが、東京本社に呼ばれる事もなく福岡支店の物流部の課長で定年退職した。年金をもらうまで福岡市内の警備会社で働いている。
 そんな父親の子供のおれは、やはり学校の成績もよくないから私立の高校を出てから就職した。福岡市の南にある大野城市のプロパンガスの会社に勤めたが二年でやめて、それから自己変革のためにおれは生きる事にした。
 フリーターとなったおれは、家を追い出された。平凡な父親だが福岡市のはずれの油山という標高六百メートルの山の近くの建売住宅をローンで手に入れてはいたのだ。父は言った。
「出て行け、啓志。自己変革とかは自分でやれ。」
とこれまた平凡な口調で怒りもせずに告げた。それでも木造アパートの部屋を借りる時には保証人にはなってくれたけれど。母は熊本出身だから、夫の言う事に異を唱えない。何も言わずに、おれを見送った。

 東京都から福岡市に移動した警視庁の今井警部は、さっそくというように殺人事件に遭遇した。今は博多署で勤務している。殺人事件の時効がなくなった今、迷宮入りした事件も担当していたのだが、中年の彼は呟く。
「これは又、まったくわからない。密室殺人なんて推理小説の世界じゃないか。」
福岡市博多区のマンションで若い女性が死んでいた。全裸でベッドにうつぶせになって、尻のところに二つの蜜柑が置いてあった。豊かな尻のそれぞれのふくらみの上に愛媛蜜柑がひとつづつ乗っていたのだ。
ベッドのシーツは真っ赤に染まっていた。それは錐のようなもので一突きされたその女性の喉から、流れ出した血の色だった。
部屋は内側から鍵が掛かっていた。そのマンションは玄関もオートロックのもので、管理人もいる。女性の死亡推定時刻は深夜二時頃と判明した。当然、管理人は帰宅している。二十四時間で警備しているわけでもない。
怪しい人物の目撃者もいなかった。警視庁から今井警部と共に博多署に転勤してきた平田刑事の地道な聞き込み捜査では、そのマンションの住民が殺人のあった日に帰宅した時刻は午前一時が最も遅いものだった。平田は痩せて筋張った二十代半ばの長身の男だ。そのマンションは五十世帯もあるので、五十の玄関を開けてもらわなければならない。十日ほどの日数で聞き込みは完了した。今井警部は平田の報告に、
「誰かがウソをついているはずだ。猟奇的な殺人だぞ。変質者みたいな男を探せばいい。そいつがきっと、犯人なんだ。そのマンションの住民以外には犯人は考えられない。」
と説明する。平田は思うところを、
「住民以外にも考えられます。」
と主張する。今井は眉をしかめると、
「誰だ、住民以外には。」
「新聞配達です。このマンションは暗証番号か鍵がないとマンションの最初の玄関が開きませんが、新聞は各家庭の玄関ポストに入れているそうです。」
今井はポンと右手で左手を叩くと、
「そうか。そういう人間もいるんだな。新聞配達は暗証番号を知っているというのだな。」
「そうです。郵便配達は、集合ポストに入れているようです。それは外から入れられますから。」
「ううむ。じゃ、新聞配達も洗うとするか。」
今井は顔をニンマリとさせた。

 私立探偵といっても、公立の探偵はいないわけだから探偵の春川智明は東京から福岡市に活動の場を移転させた。というのも東京の探偵の数が多くなり、所属していた位坂探偵事務所では望むような仕事がなくなったからだ。この現象は東京の歯科医と同じ現象だといえるだろう。
誰もが東京に仕事があると思って、集まってくるけれども昔と違って今は人手不足ではない。東京への一極集中は昔と違って、仕事の不足を呼んでいる。
けれども春川智明は、インターネットを駆使する事で福岡市で顧客の開拓に成功した。
無料ブログを開設して、自分は探偵であると自己紹介しながら日記らしきものをつけているとアクセスが集まってきた。
浮気調査その他、なんでも調査します
探偵 春川智明 福岡市南区井尻駅のすぐ近く
と、そのブログに載せるとさっそく調査の依頼があった。
福岡市内のパチンコチェーンの経営者で、愛人の素行調査だ。でっぷりと太ったその六十代の小柄な人物は、紳士然としてこう頼む。
「博多区のマンションでサンシュール博多というところだ。そこに私の愛人がいるわけだが、どうも最近、男を作ったらしい。いや、普通なら彼女は二十歳だからそれは当たり前だがね。私から月に六十万円も手当てをもらっているのだから、他の男は許せないよ。君には依頼費としてまず、四百万円を渡すから男との証拠写真を撮ってきてくれ。」
「はい、かしこまりました。できれば、その女性の写真などあれば助かります。」
「写真ね。そう言うだろうと思って持ってきたよ。」
その経営者は背広のポケットから写真を取り出すと、春川智明に手渡す。春川が見ると、清楚な感じだが肉体的に発育のいい若い女性がその経営者とプリクラで撮ったようなツーショット写真だった。

平田刑事は、捜査報告を今井警部にしていた。
「そのマンションは、サンシュール博多といって若い女性が居住者の半分です。ワンルームタイプで独身ばかりでした。殺害された女性は若木ひとみ、という名前で市内の英会話教室で事務員をしていたそうです。この若木ひとみの部屋は角部屋で五階にあります。つまり一番はしの部屋ですから隣人は一人です。その隣の部屋の住民が独身男性で野見大介という奴で、実はこの男は少々変人らしいのですが。」
今井は眼を輝かせた。椅子から立ち上がると、
「そいつだ。その野見という奴が犯人に違いない。いや、待てよ。新聞配達もいたんだろ?」
平田刑事は苦笑いすると、
「それが・・・そのマンションはインターネットが無料で見れるというの売りだそうで、新聞購読者は一人もいませんでした。」

おれ、桂木啓志は修行のために人生を捨てた。会社で働いていた時に貯めた金でヨガ教室に通った。が、健康になるためなんて別に面白いもんじゃない。
それでも、一通りはやったがおれはもっと超人になりたかった。ヨガナンダという人の自伝には色々と不思議な事が書いてある。
ヨガをマスターすれば、自殺も可能だ。脳のある部分を自分の意志で停止させれば、死ぬという。そういうものをおれは習いたい。だが、日本の教師はどれもだめな奴ぞろいだった。
そんなある日、おれはインド人が料理人のカレー屋に入った。顔の色は黒い、そう真っ黒とはいえなくとも黒っぽい感じのインド人がカレーやインド料理を作っているのだ。
インドのパンはナンという白いもので、砂糖の香りがするおいしいものだ。ラッシーという飲み物はヨーグルトを薄くしたような、やはり白い液体のもので独特な味わいだった。
世界の工場は中国からインドに移るといわれているが、彼等インド人の献身的な姿勢はそれを実現するだろう。まだ日本にそんなに来ていないインド人を見るのも珍しいものだが、数回その店に行くうちにおれは彼等と親しくなった。
料理人のインド人が自分で料理も持ってくる。注文も自分で聞きに来る。日本人の給仕人もいるけれど。今日も聞きに来たインド人は、
「ナマステ。」
と挨拶した。多分、こんにちはという意味だろう。それから、
「お客様、カレー好きですか?」
「そうだね。ぼくはヨガもやってるよ。」
「それは、すばらしい。」
「でも、日本のヨガってつまらないねー。インドのヨガって、すごいんでしょ。」
その料理人の表情が神秘的なものに変わった。威厳を持った口調で、
「その通りです。釈迦もヨガの修行で色々な能力を身につけたね。でも、あれも一部の成果。わたしも少しやりますが、今、インドから私のおじさん来てるよ。彼はヒマラヤにも行って修行した有名なヨギね。釈迦みたいに見せびらかさないから、あまり知られないけど秘密の何か教えてくれるかもよ。」
「ぜひ、会いたいな、その人に。」
「いいよー。日曜に会えるようにする。この店始まる前に会わせるよ。」
という事で、そのヨガ行者と日曜日に大橋駅近くの喫茶店で会う事になった。

大橋駅は福岡の一大ショッピング街、天神から南にある、そこそこに大きな駅だ。おれの住む井尻の井尻駅から北に一つ行った駅だ。駅近くはビル、マンションの建物ばかりで、それはかなりの円となって広がっている。個人の家が建っているのは見当たらない、という繁華街だ。
薄暗い喫茶店の中にカレー店のインド人とその横に青年が座っていた。その青年の顔はインド人だが、肌の色が白いのだ。まるで、そう白人のようだ。しかもその肌はきめ細かく、すべすべして見える。紅顔の美青年というおもむきである。年齢は二十代前半だろう。おじさん?横のカレー屋のインド人は四十代に見えるが・・・?その四十づらのカレー屋はオレを見つけると、
「おーい。ここ、ここ。」
と大声を出した。おれは二人の前の席に着く。カレー屋は、
「おじさんのカミナンダです。こちら桂木さん。」
紅顔の青年は、
「あなた、ね。私ね、インドにいて、ここに来る前にあなたが見えましたよ。それで日本のこの人は私にヨガを習うことになると思った。」
うさんくさい、という思いがおれの頭の中に走った。まるでテレビのやらせ、だ。もっとも俺はテレビなど見ることはADSLに接続してからは、してないけどね。テレビのインチキ番組じゃあるまいし、ということだ。カレー屋は何かたくらんでいるのか、それとも笑いを取りたいのか。そういうオレの思いを読み取ったかのように、そのカミナンダはテーブルにあるコップを指差すと、
「水が入っているだろう。これを減らしていく。」
そう宣告すると、じっといっぱいのコップを見つめた。すると、どういうことだ!コップの水はどんどん減って、しまいにはなくなってしまったのだ!!!
「????」
おれは、モノが言えなかった。カミナンダは静かな微笑を浮かべると、
「私の弟子になりますか?」
「はい、先生。教えてください。」
とおれは深く頭を下げてしまった。

サンシュール博多はビルの外壁が緑色という変わった外観をしている、そこに春川智明は張り込みをしなければならなくなった。ターゲットは、あの女。夜、帰ってくるところをではなく朝から張り込んでいる。
ここで探偵というものについて、特に名探偵というものについて一言しなければならないだろう。

推理小説・不可思議な男

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